丿乀庵【へつぽつあん】

へっぽこプログラマーの覚え書き

不知と無知

ソクラテスの弁明」 (プラトン(著)・納富 信留(訳)/光文社古典新訳文庫)の解説に、「不知」と「無知」の違い、「知る」と「思う」の違い、哲学の出発点、について書かれていました。哲学のことはまったくわからないのですが自分なりに考えてみました。

まず、「不知」と「無知」の違い、「知る」と「思う」の違いについて以下のように説明されています。

私たちの日常では、なんとなくそう思ったり、それなりの確信があったりする時にも、「知っている」という認定をすることがある。しかし、厳密に言えば、「知る」とは、明確な根拠をもって真理を把握しているあり方を指し、「知っている者」は、その内容や原因を体系的に説明できなければならない。

たとえば、3辺が3:4:5の比をなす三角形が直角三角形であることは、「見れば分かる」とか、「たまたま経験で知っている」とか、「学校で習った」というだけではなく、自分で「3平方の定理」を使って証明できなければ、本当に知っていることにはならない。答えが誤っている場合ばかりでなく、その根拠をきちんと把握していない状態も、「知る」にはあたらないのである。それは、たんに「思う」という状態に過ぎない。

本当は大切なことを知らないにも関わらず、地位や評判や技量によって自分こそ知恵ある者だと思いこんでいる。この「無知」(アマティアー)、つまり「知らないこと」(不知、アグノイア)を自覚していない状態こそが、最悪の恥ずべきあり方であった(プラトンは、「知らない」ことをめぐる状態を、「不知/無知」という語で基本的に分けている。この区別をきちんとつけないと、混乱や誤りに陥るので注意)。

「自分が何も知らない」と思っていることを「不知」といい、「自分が何も知らない」ことを自覚していないことを「無知」という。「知っているつもり」と「知っている」は違う。教科書・新聞・辞書・本などに書かれていることを覚えただけでは知っているとはいえない。そういう意味だと思います。

直角三角形の例でいえば、三平方の定理を使うだけでなく、三平方の定理がなぜ成り立つのかも理解していなければ本当に知っていることにはらならいのでしょう。

自分自身はどうなのかと考えてみると、やや不知よりの無知のような気がします。頭が悪くて要領が悪いから難しいことはわからないという自覚があります。知っているつもりのことは同年代の人間に比べてはるかに少ない気がします。知っているつもりのことのほとんどは教科書や本に書かれていることを覚えただけで自分の中で納得できる形で消化できていません。それにもかかわらず知っているつもりのことのいくつかは本当に理解していると思い込んでいます。

次に、「知る」と「思う」の違いをもとに哲学の出発点について以下のように説明されています。

ここで大切なのは、ソクラテスが「知らないと思っている」という慎重な言い方をしていて、日本で流布する「無知の知」(無知を知っている)といった表現は用いていない点である

日常ではあまり重要とは思われない、この「知る/思う」の明確な区別こそ、「知を愛し求める」(フィロソフェイン)営みとしての「哲学」の出発点となる。それは、ソクラテスのように自分がはっきりと「知らない」という自覚をもつ場合にだけ、その知らない対象を「知ろう」とする動きが始まるからである。

自分自身はどうなのかと考えてみるとあまり哲学向きではない気がします。意味や理由がわからないことがあっても深く考えずに気にしないことがほとんどです。ごくまれに妙な違和感を感じることがあって意味や理由がわからずもやもやした感じが心のどこかにひっかかったままになります。そのもやもやを解消するために少し調べてみてわからなかったらそれ以上考えるのをやめてしまいます。


自分自身に当てはめて考えてみた場合、やや不知よりな無知で、哲学向きではない、そんな中途半端な結果になりました。哲学者になるつもりはないし、なろうとしても不向きなようです。それでも違和感を感じてもやもやしたらできるだけ解消していきたいなと思いました。


ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)